ピッコロ劇団 第79回公演

『あしあと

 のおと、

 ものがたり』

感想とか考察のようなもの。※追記済み版



観劇日:2024年6月8日(土)14時 ※アフタートーク込

    2024年6月9日(日)14時 ※ピッコロシアター一般公開千穐楽













コトリ会議の山本さんの書き下ろしが、ピッコロの本公演として上演される。
私をコトリ会議と引き合わせくれたのは、今回の演出、原さんである。
原さんがコトリ会議の『あたたたかな北上』(2016年)ご出演というところからの出会いである。


感想の前に、私の観劇体験(観劇経験)としてピッコロ劇団とコトリ会議のことを少しだけ書いておきたいと思う。
演劇(に限らずだとは思うが)というのは、様々なタイプの作品があるが、観劇する側の人生経験に左右される以外にも観劇経験に左右される場合があると思っていて、今回の作品はその観劇経験によって割と印象が変わるのではないかという気がしているからである。


ピッコロ劇団の作品を初めて観劇したのは、第23回公演『くたばれハムレット』(2005年。え、もうそんな前?!)。その後、第30回公演『十二夜』(2008年)を観劇して、2009年にピッコロ舞台技術学校(18期)に通ってからは、全作品とはいかないもののそれなりには観劇している(そんなになるかと感慨深くなっている)。
だから、学校時代に何度も足を運び卒業公演では舞台美術を設置し転換したピッコロシアターのことはホームみたいに思っているし、ピッコロ劇団の役者さんのことも、それぞれのカラーというか、こんな感じかなみたいなのを自分が観てきた作品から思い描いたりする。


コトリ会議も『あたたたかな北上』以降、全作品とはいかないものの、それなりに観劇している。なにせ今年(2024年)3月公演期間中の22時~翌10時まで劇場を見守るという企画まで観に行ってしまうくらい大好きなのだ。
コトリ会議の作品は、とても哲学的で。山本さんの死生観だったり、宇宙観だったりがあるからなのかな、と思うが、私はそれと波長があうというか、その世界観が心地いい。
“死”といういつか誰にでも訪れる現実がすぐ傍に寂しく優しくいとおしく佇んでいる(そうでない作品もあるが)。
今回もそういう感じなのかな、と思いながらの観劇である。


*****

さて、

『あしあと

のおと、

ものがたり』

である。

タイトルをどうして一行で書かないのか、というと、

→あしあと

のおと、←

→ものがたり

これが『遠野物語』から着想を得て作られた作品で、こうやって読むと「あしあと、とおのものがたり」になるからである。
私、これ全然気づいてなくって。上演のラストでタイトルがこの順番に消えていく時に「ひえー、そういうことなんですね!!」って思ったの(遅い)。なので、あえてこう書く。
(※私は『遠野物語』は未読である。)


今年はピッコロ劇団30周年ということで、客入れにはピッコロ劇団の過去上演作品のスライドが舞台上に投影されていた。
それを見たくて1回目は開場後すぐ客席に入り見ていたのだが、自分が観たことある作品もたくさん出てくると、なんだか懐かしさがこみあげてきて、感傷的になってしまって。
スライドが終わり、曲がたまの『さよなら人類』になり、ちょっとうぐっと涙ぐんでしまっているところへ、宇多田ヒカルの『First Love』が流れてきて。
今回はあらすじを頭に入れていたのもあって「あ、そういう始まり方を……」と、まだ始まってないのに泣くな……というか、いやもうめっちゃ泣いてしまっているが?! と想定外な状況にはなっていて。そこへ、ピッコロの歌姫、鈴木あぐりさんの声が重なって、「ああ、このままお芝居にはいっていくなんて(なんて良い導入なんだ)」となっていた。二人がマイクで話しているのはちょっとコトリ会議ぽくって。
二人が客席から出てきたのも、なんだか客席と舞台上とが地続きになっていることを感じられて、すーっと自然に物語に入っていけるように感じて。
客席から舞台へ移動した二人が竹藪のカーテンの後ろへ行くと映像に切り替わるのだが、それが「この子たちも実はもう死んでいるんか?」みたいに思えたりして、でもそれがすごくポップなのにホラー感があったりして、ちょっと怖いな、なんて思いながら始まっていった。


表側と裏側ということがたくさん出てくる。
生の世界(私たちが生きている現実)と死の世界(死後だけではなく人間ではないものもいる異界)の分断であるかのように出てくるが、それはまるで陰陽のようであり。
男と女、光と闇、性と慈愛、喧騒と静寂。日々急ぎすれ違う交差点と山の麓というような、対になるものを表すようにも感じられる。
言葉の表側と裏側。気持ちの表側と裏側。秘密と真実。ということでもあるように思う。
今回の上演では舞台美術(装置)は確かにあるのだが、舞台袖も舞台奥もすべて劇場そのままが見えている作りになっている。
それによって、本来(?)ならば裏や袖で役者がスタンバイしているところも見えるし、場面によっては、移動しているところも見える。
“劇場とは何か”をいきなり突き付けてくる。
役者にとってはなかなかに厳しい環境だと思われるが、この作品のいう表側と裏側は、分断と書いたが実際には分断ではなく地続きなのだ。
だから役者にとっても、ここが表側とか裏側とかないのではないだろうか。役者個人としての自分と役としての自分が地続きで混ざりあっているのではないかな、と勝手に思っている。
十夜家のダイニングで真野実がテーブルを“90度に裏返す”よう、促し、その90度倒された机が表側と裏側の境目なのだと言う。
また、遠野君が山の麓の火葬場に行った時も真野実(真野蝉)が“その石を超えれば裏側“だと言う。
表側と裏側を分断する境目は確かにあるが、でも結局のところそれはいとも簡単に踏み越えられる、地続きなのだと感じられる。
石のことについては、『遠野物語』のことを何もしらない私は、後からそういった石碑群が岩手県遠野市にあるのだと知った。
私は、その石を超える=踏み越えるということが、『罪と罰』(ドストエフスキー)の江川卓訳の解説にあった、罪を表す単語“Преступление”が、超えるという接続しに歩むという単語の合成語から派生した名詞で、踏み越えることを意味するというのが思い出されて、死んだものを生き返らせることであったり、真野実の真実を本人に黙って確かめに行くということが、罪とまでは言えないかもしれなくても、何かよくないことへ踏み出す、踏み越えるみたいなものに感じられた。人は裏側へ踏み出さずにはいられないのかもしれない。そのくらいに裏側は地続きなのだと思う。
ラスト、真野実が死んで、舞台奥の一番高いところのセンターに真野実が佇んでいる。そしておそらく、通常であれば幕やホリの裏側にあたる部分に一廊と睦子がいる。
これがすごく野外劇場というかテント芝居のような感じがして。でも野外劇場とは違う、屋内で、借景ということでもない。
普段見えない舞台袖、そして舞台奥。
ストレートに、そしてダイレクトに表側と裏側をこれでもかと見せつけるのはピッコロ劇団30周年の積み重ねの強みだと感じる。
なお、ピッコロシアター上演の終了後、福崎町エルデホールでの上演ではホールが開いて外の芝生の奥の方に真野実がいたようで、自分がピッコロシアター大ホールで感じたことはあながち間違いではなかったのだな、と思ったりした。
劇場の可能性は∞(無限大)なのだ。


ホラー感ということを書いたが、死だったり、宇宙人(火星人)だったりがよく出てくるコトリ会議だが、コトリ会議ではあまりホラー的な怖さということを今まで感じたことがなかった。まあいきなり撃たれて死んでビビるとかはあったけど。
今回は、冒頭や、山の麓の火葬場の裏側へ入った時とか、ちょっとホラーっぽい雰囲気の要素があるように思えた。
幼き頃から妖怪とかの類は苦手で、ホラー映画はいまでもまったくダメな私なので、単にビビりすぎかもしれないが、夜に見ていたら怖くて眠れなかったかもしれない(大袈裟)。
山の麓の火葬場で睦子が生き返るための儀式を行う(と私はとらえる)時、場面の時刻は7月7日の7時77分で止まっている。存在しない時間。ここは裏側なのだとわかるとともに、この時間はいったい何時なのだろうと思う。そういうホラー感もあった。


真野実は竹人形で、実はたくさんいるということが、中盤で明かされる。
真野実とされる竹人形は同時に存在していて、ちょっと『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイが脳裏によぎる。(山を離れると生きられないというところもちょっとエヴァっぽいかもしれない。)だが彼女たちは綾波レイのように同じ顔でもなく、同じ身体でもない。
山の麓の火葬場=裏側で真実を伝える真野実(真野蝉)はいまの真野実が死んだら次は私(いわゆる“私が死んでも、代わりはいるもの”)という考えのように思える。現に、十夜小夜が“大学は楽しいか?”と投げかける真野実(真野蝉)は祖母・睦子を生き返らせると説明に来た真野実と個体が違っているが同じ人物と認識しているように尋ねる。
(その前に生き返らせることを伝えに来た真野実は小夜を知らないというシーンがあり、真野実と真野蝉はどちらも近い世代だからなのか共有している部分が多いように見受けられるがこの辺りは詳しくは描かれないし、そこは本質ではない気がしている)。
だが、遠野君に恋しちゃった真野実は“遠野君が愛しているのはこの自分だけだよね”ということを自分の死に際に投げかける。
最初に“一年だけなら”と付き合うことを約束した真野実。
真野実が竹人形であり、自分が死んだら次の真野実が生きることを理解しているのであれば真野実としてはずっと遠野君と添い遂げられるということであるが、彼女は自分自身=いまの“真野実”として遠野君を愛したくて、愛されたくて。そして自分はずっとはいられないとういことを知っていて。“バイトもやめてずっと一緒にいよう”というのは割と重いなと思うけれど、期限が限られているのなら、余命が限られているのなら、いましかできないことをしたいという気持ちもわからなくもないなということも思う。
次の真野実(真野蝉)は、今の真野実と同じようにあろうとして、でも遠野君には愛されない。そこにいまの真野実を出し抜こうとする女の嫉妬のようなものが見え隠れしたりもする。
真野実は同じであって、同じでない。人間が同じ人間であってそうでないように。


そういう部分も含めて、並行世界ということをすごく考えている。
並行世界については、コトリ会議の2024年3月公演『雨降りのヌエ』で4作品が、同じ日時の別の場所が舞台の設定になっていたことからも考えていたことではあるのだが、真野実の一個体一個体が違うことをはじめとして、遠野君が告白をしなかったら、小夜が家を出ていかなければ、というタラレバもある意味並行世界だと思うし(タラレバはピッコロ劇団のおでかけステージ『タラレバ幽霊とタカラの山』を観ているからということも大きいかもしれない。)、アフタートークで山本さんが“物語が好き”とういことを仰っていたように思うが、物語というのは、それが面白いか面白くないかは別にしてどの人間にも誰にでもあって。
だから、同じ作品を見ても、観客はみな感じることが違っていて、その観客一人ひとりに補完される並行世界があるんじゃないかな、と感じるというか。
演劇って並行世界なんだなぁ、ということを思ったりしている。


竹人形のことを書いたので、そこからのことも少し。
コトリ会議で『あ、カッコンの竹』(2017年)を見ているからかもしれないのだが、「ああ、竹ってやっぱりえっちなんだなぁ」ってなったんですよね。あの、女の人が一廊に竹のお腹を触ってほしいってところとか、真野蝉のお腹が光るとか、えっちだったよね?(光るのがえっちなのかと言われたら知らんけどってなるが。)
竹の成長の速さだったりとか、竹のお腹が光るのは輝夜姫を思い出したりして、輝夜姫は宇宙人と考えると、竹人形も宇宙人なのかもしれないな、ということも思ったりした。
私は人間の体の中にも宇宙がある、宇宙と繋がっていると考えているところがあるので、竹の身体になるとより宇宙と繋がるというか、「死んだら星になる」ではないんだけれど、死んで火葬され煙が空へ、宇宙(そら)へ上がっていくことと、生と性と死が結びつく感じがあるな、というのも感じている。
生と性が結びついているということを考えると、遠野君と真野実がキスをしてそれで真野実の頭から竹が伸びちゃうのも、めちゃくちゃえっちだなと思った。生娘ではなくなったんだね、というか、貫かれた感があるというか。
この頭の竹はアンテナのように思えたりもして、コトリ会議おなじみの火星人(宇宙人)のアレを彷彿させるようでもあり、やっぱり竹人形は宇宙人かもしれないな、と思うと同時に、コトリ会議のアレは門外不出なのだな、と思ったりした。


音楽のことを少し書きたいと思う。
客入れの音楽、入った時は一瞬『今夜はブギーポップ』かぁ、なんて思ったりしたが、ちょっと違うな、となって「あれ、これ若旦那さん生誕祭(※コトリ会議3月公演での企画の一つ)の開会宣言ラップのやつでは~?! 開会宣言されてるぅ~?!(違)」と思って「客入れ曲のセンスよ……」と思わずTwitter(現X)につぶやいたわけである。正確には『水星×今夜はブギーバック』で、水星で宇宙感が出るし、コラボ感もちゃんとあらわされているし、ちゃんと恋人たちの物語があるなって思った。
そして『思い出がいっぱい』になって舞台写真が投影される=懐古ターンが始まる。ここはピッコロ30周年の意味が強くあるのかな、と思っていたが、『ロマンスの神様』だったり『アイウエ』だったりと年代順の曲でもない。だから客入れも作品と合わせた選曲なのかな、と思っている。

(2回目の観劇はあまり感傷的になりたくなくて、ギリギリになってから入ったので、記憶は定かでないので曲は私の思い込みかもしれない。)
そういう意味で、『思い出がいっぱい』は小夜の家族との思い出のことかもしれないなと思うし、『アイウエ』は愛飢えで全部わかっていたい羽村田(と真野蝉)の曲かもしれないな、なんて思ったりしている。
2回目観劇の『さよなら人類』では“あのこのカケラはみつからない”でめっちゃ泣いてしまって(結局始まる前から泣いている私)。ぐずぐずになりながら見ることになったので、それなら開場すぐから客席にいればよかったななんて思ったりした。
コトリ会議では、割と既成曲が効果的に使われる作品が多いので、今回の本編中の音楽がどのくらい作家による指定なのかはわからないけれど、私はたぶん、原さんと山本さんとほぼ同世代なので、割とかかっていた曲に引っかかりを感じやすかったかもしれない。
それは、世代によっては刺さらないということもあるかもしれないし、自分の経験に引き摺られてしまって作品の意図からずれてしまうこともあるかと思うが、思いの外、作品とぴったり重なっていたと思う。
また『恋する惑星「アナタ」』や『それを愛と呼ぶなら』については、私は初めましての曲だったので、歌詞をじっくり聞いたりしてそれが物語と順応していくのがとても面白かった。
でも『恋する惑星』と聞くとウォン・カーウァイで、フェイ・ウォンだよな、とは思うけど。
『それを愛と呼ぶなら』は歌詞もそうだが、女の人=母と、事伝=父の二人のシーンとして、唯一父母がどういう存在であったかがわかるシーンだと思っていて、最高に良くてとても美しかった。一緒に歌うシーンの尺とか、背中合わせになるとか、この世のものとは思えない(この世のものじゃないけど)良さがあった。
音楽は割とJ-POPが多いなかで、クラシック曲が印象的に使われるのもちょっとエヴァっぽいなって思ったりした。
山の麓の裏側で『サラバンド』(ヘンデル)が厳かに鳴り響くのも、アウフタクトなので引き摺られるという感じもあってすごく良かった。
またラストの『カヴァレリア・ルスティカーナ 間奏曲』は、すごくいろいろな意味を感じられるというか。
曲自体は美しい旋律なので、そのままその美しさとともに死んだ者との思い出を胸に残してもいいような気もするが、『カヴァレリア・ルスティカーナ』自体が市井の人々を描いたオペラで、田舎の村の話なので、在間市という町で生活を営む人たちを描いているという点と、ちょっと通ずるところがあるんじゃないかな、と感じたりもするし、裏側という点でいえば、告白の代償を受けるという意味合いはあるのではないかと思って。”愛”という業を背負って生きるというのか。
その後の遠野君のことを思うととても胸が締め付けられるというか。


また並行世界の話に戻ってしまうかもしれないが、遠野君が告白しなかったら真野実はこんなに早く死ななかった世界線が多分ある。山から離れない。キスもしない。それは初代の真野実だったかもしれないし、77代目の真野実だったかもしれない。でも真野実は愛されちゃったし遠野君を愛しちゃった。愛という力の大きさは、時に死に引き摺り込むのと同じくらいのベクトルの重力があるのじゃないか。
恋する気持ち、愛する気持ちというのはどうやっても止められないのだと思う。だからこそ、その選択がどうであっても“Love means never having to say you're sorry.(愛とは決して後悔しないこと。)” (『ある愛の詩』)であればよい。
それでもやっぱり失ったものというのは大きくて。それが死人を引き摺り込むということにつながったりするのかもしれないな、と思う。
愛というのは恋愛的な意味だけではなくて、家族を思い愛する気持ちも同じ。
小夜のことを思って、進路志望調査票に勝手に大学名を書く一廊と睦子。
そして睦子を生き返らせた父と母。
小夜は家族のことを思って志望の大学を地元の大学に決めているけれど、結局のところお互いのことを思いあっているのに行き違ってしまい、すれ違ってしまってきちんとお別れも言えない。
一廊は睦子が死んだ瞬間から睦子に引き摺り込まれていきそうな雰囲気があって。そして、小夜にはそうさせないようにしようというところが見え隠れする。
睦子が生き返った時に、死んだ時の姿のまま、おばあちゃんの睦子のままだったら、一廊も生きる気持ちがまだ続いたのかもしれない。若返っていた睦子を嬉しく懐かしむ気持ちもありつつも、そこには自分が愛した睦子はいないのだと感じたのかもしれない。
若返った“女の人”は小夜の母にそっくりだという。だから、母として、そして祖母として小夜を見守れる人がいると確信できたから、一廊は逝ってしまったのではないかと思う。


愛の力は時に残酷で。それでもやはりあたたかく優しい。


事伝役は小夜の父であると思っているが、彼は十夜家には入ってこない。
死んだ人は表側に来られないのかな、と思っていたけれど、妻の実家じゃ入りにくいんかなとも思ったりする。
そういうところは山本さんの本っぽくて面白いなって思ったり。
それでもちゃんと外から見守ってくれているのである。


そういったあたりのことに、自分が身内を亡くしていることがリンクしてすごく泣いてしまったのかもしれないな、と思っている。
この世界のように、表側と裏側が本当に地続きですぐ傍に優しく寄り添って死が見守ってくれているならと思うし、時には会えたらいいな、とも思うし。
そういうところは自分の人生経験と重なるのかな、と思う。


みんな大好き羽村田のことも書いておきたい。
出てくる人物のなかでキャラの個性が一番強くてインパクトも大きいので、印象に残りやすいと思うけれど、とても孤独な人なんだよね。寂しがり屋さん。そして誰よりも優しい人。
だって普通、火の中のスマホ、素手で取れないよ?!
一所懸命が空回ってしまう人なんだな、って。こんなにも優しさのかたまりなのに。
真野蝉に“嘘付き合い”ということを持ち出すところ、それって本気付き合いが怖いってことだろうなって。人と深く関わることへの臆病さが見えるというか。真野蝉は羽村田を利用しようとしているということも分かっているだろうし(いや、どうかな?)。
でも、それでもつながりたいと思っているんだなって感じる。
真野実をずっとつけて探っているのも、すべてを知りたいというのはその人とどこかでつながりたいということだと思うし。
遠野君のことも同じようにつながりたいんだろうなって思うし。
すごくコミカルな部分が目立つけれど、羽村田には幸せになってほしいと思う。


人間は結局一人なのかどうか。
その孤立があしあとのおとの「ぽつぽつ」みたいな、「ぽつ」は孤立しているけれど、「ぽつ」が集まっていくと「ぽつぽつぽつぽつ」と続いていって繋がっていくというのも感じたりして、最終的には、自分=己、一人ではあるけれど、結局、どこかと誰かと、それは表側の生きている人とのつながりかもしれないし、死んだ人との思いでとのつながりだとか、それまで積み重ねてきたことのつながりだったり、人は一人では生きられないのだな、ということを感じたりした。
その「ぽつ」はその人の物語の音であり、「ぽつぽつぽつぽつ」と人それぞれの物語が繋がって、また物語が紡がれていくのじゃないか。


それにしても真野蝉はついぞ本編中には真野蝉という名が出ることはかった気がする。
蝉というのは、空蝉=現身ということだろうなと思うけれど、かのアリストテレスがいう”再生と不死の象徴”なのかもしれないな、と思う。
コトリ会議では『セミの空の空』(2019年)という作品があって、その時も蝉の抜け殻がいっぱい出てきて、セミ人間(?)が出てきたりするので、それを少し思い出したりもする。
蝉は現身としてではなく、自分こそが真野実として存在したかったのかな。そういう意味では蝉も、遠野君の恋した真野実と同じように、自我が強いのかもしれないな。


蝉のことついでに言うと、小夜が思い出を語る時に、“セミの抜け殻を家に持って帰った”という話をするんだけれど、なんと観劇の帰りに蝉の抜け殻を見つけたので「表側と裏側はやはり存在する」なんて思いながら帰った。


*****

観終わって、「これは………ピッコロでないとできないコトリ……。コトリだけどピッコロなコトリ……。」とツイート(ポスト)した。
アフタートークで、話題に上がっていたが、わくわくステージで中学生の観劇があるという観る側を想定するところもあったようで、“死をいきなり突き付けない“といった配慮からあの冒頭が生まれたりしたそうである。
そういう意味では山本さん作だけれど、やっぱりピッコロ作品なんだな、と思うところもあり、そうなったことで、山本さんの世界へより入り込みやすくなったと思う気もする。
ピッコトリ会議。
否、ピッコロリ会議。
まあ、どっちでもあり、どっちでもないというか。


2回目の観劇の時、学生が団体で入っていて。あれは高校生だったのかな、中学生だったのかな。どっちだろう。そうすると、やっぱり反応が違う。
笑ったり、リアクションの空気感みたいなのが感じられて。
客席の状況によってもなんだか受け止めるものが違うような気もしていた。

客席の状況といえば、1回目はチケットをピッコロ劇団に電話してお願いしたのだけれど、席の希望を聞かれたときに、「いまある席の中で劇団の方がご覧になって一番おすすめの席をお願いしたい」と伝えたら、ほぼどセンの席だった。えー、こんな特等席いいのか?!くらいの真ん中で、上の字幕部分も見えづらいこともなく、全体が見通せて、なおかつ最後の真野実のセンターとぴったりくる。
コトリ会議では割とセンターより、上手から見たり下手から見たりしたほうが面白いことが多いのだけれど、こんなにもどセンで良かったな、と思ったことはなかった。大感謝である。
2回目は特に希望は言っておらず、前方席で上手側だった。
下手側での役者スタンバイがめっちゃ見えたり、遠野君に告白される時の真野実の表情ががっつり見えたり、鯉のシーンをじっくり見られたりとてもよかった。


演劇というのはそういうものが混じりあって、そして、観客と混じりあって、そこに何かが生まれるのだと思う。だから面白いし、何度でも観たくなる。劇場に会いに行きたくなる。


“演劇っておもしろい”という原さんの思いを存分に受け止めたように思う。
もっと見たかった。わくわくステージでたくさんの中学生が観られたことはとても良いことだと思うが、一般公演もう少しあってもよかったのではないか。
14時公演が多かったのはありがたかったが。
最近ピッコロの上演で多い11時開演だと朝ごはんとお昼ごはんに困る(お腹が鳴る的なことで)。
また再演があればいいな。


まだまだいろいろ書き足りないが、ひとまずこの辺りで。
役者さんのこととか、また少し追記できればいいな、と思いつつ。


2024/6/23

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<追記>

考察は永遠にできそうだなと思うが、私が観劇してから3週間が経とうとしているので、そろそろ追記をして、一区切りしようと思う。


時間が経つのは早い。
ということで、時間の経過について。
今回の公演では舞台上部に場面と時間が時に簡潔に、時にめちゃくちゃ細かく表示される。
もとより、山本さんの戯曲はト書きが面白く、それをどう表現するのかというところだと思うが、7時77分なんてどう頑張っても表現できないだろうから、こうして表示してしまうのは潔くていいな、と思った。場面を掲示するのは、ブレヒトの『三文オペラ』ぽくってそれもなんかよいなと思う。
時間の桁数がとてつもない数字になるのを見ると、コトリ会議の『しばふ暴風警報』(ストレンジシード静岡2020 。3月の『雨降りのヌエ』最終日企画「茶」の際に動画を見せていただいた)のページ数を思い出したりしてウフフってなったりした。
この作品は場面数も多く、転換も多く速い。このスピードが速すぎると感じる場合もあるかもしれないが、時間の経過の表現は必須な作品だと思うし、私としては人間の営みそのものを表しているようだなと思った。
人生なんてあっという間みたいなところあるじゃないですか。永遠と一瞬との繰り返しのような。永遠と一瞬の繰り返しというのは、気づいたら朝だったとか、眠れないし朝も来ないとか、同じ時間のはずなのに、時間の流れ方が日常でも変わる。
最後に遠野君と遠野君の愛する真野実とが何度も抱き合ってと繰り返すところもそういうところとつながるような気がして。
そして、この一瞬、真野実が死ぬ前、時が止まるその一瞬の永遠を表すのにあの時間表示は絶対に必要なのだ。(前方席だとこれが見づらいので、そのあたりを感じるのは難しいだろうな。たぶん後方席で見た人と受け取るものは異なるだろうな、っていうのは思う。)
この一瞬の永遠は、もしかしたら死の直面に遭遇するという走馬灯と同じようなものかもしれない。
その永遠の一瞬を彩るのが生演奏だ。歌声以外に生演奏があるのはこのシーンだけ(だったと思う)。それも役者が演奏する。
厳かで、柔らかで。クラシックのようであり、ジャズのようであり、また雅楽のようであり。
それは死の弔いであり、また愛を生きる人への祝福でもある。
人間の愚かさと愛しさを慈しむような時間で、愛の力が何もかもを超越していく。
あの一瞬の永遠の中で、生きている瞬間が生演奏によってより際立ち、そこにこそ全てがあるように感じた。


人の人生の短かすぎるほんの一瞬の永遠。
儚く、哀しく、残酷で、いとおしく、優しい時間。
確かにそこに存在した愛。


遠野君は、真野実に告白した時に、スマホに真野実の言葉を録音して言質をとるが、それを終盤には火の中に捨ててしまう。機械の中の音声、それも無理に言わせた言葉ではなくて、目の前にいる真野実を、真野実と愛し共にいる時間を、真野実、そして自分が死ぬまでずっと持ち続ける覚悟であり、それが絶対に在り続けるという自信のような気がしている。
誰よりも自分の心の中に真野実は存在し続ける。


存在する限り、共にある。


それは遠野君の中だけにあるのだけれど、それを優しい羽村田がスマホを拾い上げることによって、遠野君の中だけではなくて、後世に二人が存在した事実が残っていくのだな、ということも思う。
『遠野物語』で語り継がれる逸話、伝承のように。
そして逸話・伝承がほんのり少しずつ形を変えて語り継がれるように、竹人形である「真野実」も個体ごとによって変わっていくということなのだろうか。


観劇した記憶が薄れつつある。覚えているけれど、細かいところは忘れつつある。
そこに関連して、となるかはわからないが、睦子が生き返られる期間は9ヶ月〜1年と言われる。
竹人形だし、湿気とか環境もあっての期間かもしれないけれど、私はこれが記憶の薄れゆく時間なのではないかと思った。
もちろん近しい人を、大切な人を失った哀しみというのは大きいし、そんなにすぐに忘れるものではないと思う。
ただ、その“人の「死」という記憶が薄れること”が悪い意味ではなくて、人が大切な人を失った時の“失った”という記憶が薄れ、生きていた頃の思い出とともに前を向いて歩き出すのに要する時間なのではないか、ということだ。
死に引きずられなくなる期間というか。死を受け入れて共に歩く。
もちろん、それは人によって、すっと前を向いて歩くぞと言える人もいるかもしれないし、いつまでもいつまでもという人もいると思うし、そういうことではないのかもしれないけれど、一廊のように引きずられたり、小夜のように前を向いて歩いていけたり、ということが出てくる期間が、9か月~1年ところなのではないかな、と思ったりしている。


小夜の思い出を語るシーンはまるで卒業式のようだった。
高校の卒業式を一廊と睦子に(そしてきっと父と母に)見て欲しかったという小夜の思いに応えるように、思い出を振り返る。
季節、時間の移り変わり、星に包まれるような瞬間。(私はここがミュージカル『メリー・ポピンズ』の♪Anything can happen♪のラストみたいで、そういう観劇経験もちょっと自分の中でリンクしたり、それと『タラレバ幽霊とタカラの山』も思い出したりして、泣いてしまったのだが。)

アフタートークでサリngROCKさんが、”夕日が線香花火みたい”、とおっしゃっていて(それは山本さんも原さんも意図されていなかったようだが)、なんだかそういうことを感じられる余白があるというか、ここは客席に座っている自分も少し過去に浸ってみたり、思い出したりして、舞台と一体になる感覚が強かった。


あと、鯉のシーン。
かしこな鯉たち。そのかしこを風貌がパンク(?)な境とギャルな祝世が鯉の人形を持って話すのが面白くて。これをヤンキー座り(?)でやっているのが、なんだか謎の説得力がある。ヤンキーの真理みたいというのか。人が外見で判断する偏見みたいなものも感じられるというか。
鯉が口をパクパクして寄ってくるのを本当にエサが欲しいかなんて知りもしないで、私たちは鯉にエサをやったりするわけだけれど、ほんとに鯉が池の水をきれいにするためにパンを食べてくれているかはわからないわけで。ここにも並行世界があるな、ってなったりして。
鯉が喋ることによって、人間の愚かさとか、おかしみのある生き物であるということがより際立つように感じられて。
あと、鯉は恋とかかっているのだろうなと思うところもあって。
人間とは本当に自分のこと、目の前のことしか考えられぬもので、ちょっとでも相手のことを思えれば、なのだけれど、それもまたエゴなのだろうとか。そういうことが、かしこな鯉を通じてこちらへ突き付けられる気がした。


役者さんのこと。
ピッコロ劇団30周年ということもあるので、いままで見た作品で印象に残っている役のことも書きつつ、今回の役のことも書きたいなと思いつつ。

チラシのお写真順番に上から→の順で書いていく。


・遠野物語(谷口遼さん)
谷口さんは『三人姉妹』のアンドレイが印象深い。それこそ「どうしてタイトルが『三人姉妹』なんだろうな」と思わせるくらい、もっと見ていたいアンドレイだった。『バックネット委員会』の鹿田や『やわらかい服を着て』の若島、『タラレバ幽霊とタカラの山』のショウとか、今時の若者感も自然だし、その若者の持つ真っ直ぐさみたいなのの表現が突き刺さってくる感じがあるな。と思う。
遠野君のまっすぐに真野実を愛する姿、若さゆえの無鉄砲さ、真実を知ったことによって怖気づき、それでも覚悟を決めるところ、一瞬を永遠にしてしまうことに説得力があり、失ったことの哀しみとか、彼の中のぐちゃぐちゃなものが飛んできて。まっすぐだからこそ眩くて切なかった。


・真野実(樫村千晶さん)
樫村さんは私のピッコロ初めましての『くたばれハムレット』の頃からずーーーーーーーっとお変わりなくて、もしかして永遠に少女なのでは? と思っている。
『十二夜』で、ヴァイオラ&セバスチャンの影で、台詞はなくて吉村さんとくるくると入れ替わってというのがとても記憶に残っていて。
印象深いのは『喜劇かもめ』のニーナ。美しく可憐で残酷で儚くかわいそうな少女。それでも生きていく強さも感じられて。愛しく放っておけないニーナ。また見たい。
『三人姉妹』のマーシャもなのだが、恋する気持ち、愛する気持ち、憧れの気持ちを止められない女性の心を時に大胆に、時に繊細に表現されるのが素敵だなって思う。
真野実の、遠野君に告白されてちょっと困り顔で、でも好きな人に好きって言ってもらえた嬉しさみたいなのが滲み出るような表情とか、寿命いっぱいまで遠野君を独占したい気持ちのぶつけ方とか、人形が人間に恋をするおそらく初めての感情というものが人間のそれのようでそうではないというのも見えるし、それがいとおしく、でもわがままなようにこちらに届いてきて。
“真野実”とはなんであるかという謎とともに、異界のものも人間とは変わらないということも突き付けてくると感じられた。


・真野蝉(有川理沙さん)
有川さんは抱えているものが大きい女性の役が印象に残るというか。『スターマン』での妹の一見わがままなように見えて、実際のところは不器用で弱さと過去を抱えながら生きているのが印象深い。『パレードを待ちながら』もドイツ移民というところで他の女たちとは違うものを背負っていて、とても難しい役を丁寧に演じられるなという印象がある。
真野蝉は、自分こそが真野実であると言わんばかりで。真野実が知る恋心すらも自分と同化させようとしていく感じがある。「真野実」が個体によって違っているようで、実は違わないようにしようとしているのかもしれないとも思うし、自分が竹人形である=“代替わりがあれど永遠の命を持っている“ことに誇りに思っているようにも思えるし、人間のように恋する「真野実」に対しての女としての嫉妬や、情念をより強く感じるように思えて、それがとても人間臭くも感じる。異界のものの恐ろしさを感じさせつつも、彼女もまたそのうちに次の代にかわられるのであろう孤独も感じられた。


・羽村田光(今仲ひろしさん)
今仲さんは、『モスラを待って』の再演の時に、女性役と知って「なんだって~?!」とめちゃ驚いた記憶がある。『Not About Nightingales-C監房棟の男たち-』の印象とうってかわってみたいなのもあったからだと思う。『博多小女郎波枕』も凄かったな。『喜劇かもめ』のドールンのマーシャに接するところに関係性がきちんと見えたり、とてもかっこよくてドールンのこと好きになったし、『三人姉妹』のクルイギンもめっちゃ嫌な奴だなと思う反面、とてもかわいそうだとも思えて。人間の持つおかしみと、そこに介在する哀しさや寂しさ、弱さ、愛しさがスルーっと伝わってくるのがとても印象的で。
羽村田のことも個性の強いキャラ感だけではなくて、根底にある彼の優しさと孤独、寂しさを気づかせないくらいにそっと、でも、着実にしっかりと乗せて魅せてくださるのがよかった。


・十夜小夜(木下鮎美さん)
木下さんは一生懸命、真っ直ぐに全力でというのが伝わってくる方。
『バックネット委員会』のサラ(英語の台詞めちゃかっこよかったな)の、自分の青春時代を振り返らせてくれるような、芯の強い真っ直ぐさがあって。
小夜は、高校3年生で本当なら両親がいてほしいだろう中で、祖父母に愛されて育っていて、だからこそ、まっすぐに迷ってしまうところがあって。それが若さゆえのわがままのようにも取れるし、精一杯にも思える。そして、たくさんの人に守られていることを感じて、生き返った祖母であり母である“女の人”とともに、一人まっすぐに前を向いて歩こうとするのがよかった。
イラストもほんとにお上手で。公演終了後にTwitter(現X)にあげられていた十夜家のイラスト父母もいてとても良かった。


・十夜一廊(森好文さん)
森さんは『Not About Nightingales-C監房棟の男たち-』のウォーレンの衝撃が凄くて。台詞に書かれている行間も含めてきちんと言葉と表情でこちら側に届けてくださる方。
『長い墓標の列』の山名は圧巻であったと思うし、『三人姉妹』のチェブトゥイキンの“ああ、生きていなかったら良かった!”というところが、いまでも胸に突き刺さっている。
一廊は、最初は「ん」という一音だけで多様な感情が表現されているし、一廊の気持ちが、小夜を思う気持ち、睦子を思う気持ち、生き返った睦子を思う気持ちとか、死がすでに隣にあるかのような空気まで表現されていて。だからこそ死なないで、せめて小夜の卒業まで生きていてほしかったな、って思うし、睦子と早く一緒になれてよかったとも思う。“土管か。”って言うところ、ほんまに最高やったし、一廊おじいちゃんのぶっきらぼうだけれど、真理を説くこととやさしさとが滲み出ていて素敵だった。


・十夜睦子(亀井妙子さん)
亀井さんは『蛍の光』の林の妻役で、生協を”運命共同体と、似てますね。”と言うのが記憶に残っていて。現実に、近所にいそうで実はいない女性をとても自然に演じられる方。この時は衣装担当もされていて。衣装もいつもとても素敵なのだ。それと『さらっていってよピーターパン』(2015年)のジョンも、お、男の子だぁ! とすごく驚いたりして。『いらないものだけ手に入る』のロウザさんもかわいかった。
睦子も“つるりんこちゃん”って言ったりしてかわいくて。マイペースな感じでいるけれど、一廊のことも小夜のこともきちんと理解しているって思えたし、死を通じて、おばあちゃんらしさと妻であることと、女性らしさと、死んでしまったという現実を受け止めたようで受け止めきれないようなところをさらりぬるりと演じられていて。声の表現の幅も広くて凄いなって思ったり。
一廊と早く一緒になれて良かったとも思うけど、でも小夜の卒業式までは、一廊を連れて行かないでほしかったな、とも思う。


・女の人(鈴木あぐりさん)
ピッコロの歌姫、と言っていいのではないだろうか。

もちろんピッコロ劇団は皆さん歌唱力(そして合唱力)は素晴らしいのであるが、鈴木さんは『波の上のキネマ』のチルーで、「わー、すげぇ歌うますぎる!!!」 ってなって。鈴木さんがソロで歌っていらっしゃるとめちゃ安心する。お芝居も素敵で、『月光のつゝしみ』の若葉の不安定さとか、『三人姉妹』のナターリャの恥ずかしがりの少女から、強かな女主人のようになる変遷が自然と見えたのが印象深い。
今作では“女の人”という役名で、睦子の生き返りとか母とか名前が書かれていない。それは睦子であり、小夜の母であり、竹人形という真野実の一部だからなのかもしれない。そういう異界のものの怪しさと、睦子のように優しく、ちょっとお茶目でかわいくて、そして母としてずっと見守っていたのだろうなと思えるのがとても良かった。今回も歌が本当に素晴らしかった。

・祝世(吉江麻樹さん)
しっかりしたお姉さん、きちんとしたお姉さんという印象が強い吉江さん。

吉江さんが演じられた中では『かさぶた式部考』のてるえが、とても好き。てるえの強さとそして弱さが表現されていて。それと、『タラレバ幽霊とタカラの山』の先生が学校に行きたくないと思った時のことを告白するシーンとか、ほんとに胸がいっぱいになったり。女性の強さと弱さのないまぜになっている表現がいつも素晴らしいと思う。

そんな吉江さんが!!! 今回ギャルなんですよ!!!(力説)

一瞬、吉江さんかわからんかったくらいギャルなんですよ!!! ちぃ~っすって入ってくるのギャンカワ~~~~!!!! どうして! どうしてピッコロはいままでこんなにキュートでかわいい吉江さんを隠していたの?!(私が見てないだけで実はそういう役があったのかもしれないけど。) ギャルな(ギャルじゃなくてもいいけど)カワイイ吉江さんもっと見たいです!!
鯉の台詞が一番多かったのかな。それをちょっと鯉っぽい(ぱくぱくした)感じで、その鯉の哲学がストンと伝わってくるのがさすがだなって思ったし、竹人形=真野実としての人形感(木之下さんとのシンクロ!)、異界のものの恐ろしさみたいなのと、感情がこもっていないようなのに遠野君への思いが伝わってくるのが凄かった。


・事伝(三坂賢二郎さん)
三坂さんはお声が真っ直ぐヒュンって耳に入ってくるのもあって、『マンガの虫は空こえて』の鉄郎や、『波の上のキネマ』の安室俊介(と俊英)とか、ザ・ヒーロー(主人公)!な役の印象が深いけれど、いままで見た中で一番印象的なのは『歌うシャイロック』のロレンゾー。劇中で、ほんとこいつ許さん~!! って思うくらい腹立つロレンゾーで。でも、カテコのおまけ演出がとても良くて。それは本編とは違ってifな世界だったけど、ちょっと救われる感じがあってめちゃ泣いたのだ。
今作では台詞がそこまで多くないのであるが、父としてちょっと離れてるけれどもそばで優しく見守る眼差しと、一廊の声をきちんと届ける素敵な事伝だった。歌も聞けて、エエ声で“フレンチブルドッグ”とか“フランスパン”って言っていて(このフランス語?講義シーン一連の流れ最高だった!)とてもよかった。そして身体の動きがとても美しい。スタンバっておられる立ち姿もシュッとされていて、転換の動きもスッと重心が重いのに軽やかに動くのが素敵であった。


・幸(木之下由香さん)
朗らかな笑顔にいつも私は癒される、木之下さん。
『ホクロのある左足』のフーコや、この前の『パレードを待ちながら』のマーガレットも素敵だったけれど、『バックネット委員会』のバナさんがここのところではダントツに印象深い。私もバナさんに導かれるままに心の水源を叩きまくったよ……。バナさんを信じよう!って思えるパワーが中ホール全体に解き放たれていて凄かった。
で、今回は1回目、木之下さんだって全然気づかなくって。終わってからあの役はどなただったのかしらって、チラシとinto見直して、え、木之下さんじゃん!! ってビックリした。

ヘアメイクの影響もあるとは思うが、ほんとに気づかなかった。2回目は見逃さないようにと見ていたけれど、睦子の亡霊のようにやってくる時の一廊への視線や、吉江さんのところにも書いたけれど、竹人形の真野実としての怖さ、それと遠野君への思いがシンクロして伝わってくるところとか、ちょっとホラーな異界のおぞましさらしきものがあって。
それでいて、舞台装置のように小夜の傍にいたりするときは、ニコニコされているように思えて、“幸”という名前だけに、裏側の人だけれど人間に「幸あれ」と優しく見守ってくれているのだなと感じた。


・境(岡島大祐さん)

岡島さんは『タラレバ幽霊とタカラの山』の黒子(?)でいろいろなさっていたのも印象深いが、『バックネット委員会』の八木が。ブラック企業に入ったら苦労するんだなっていういかにも今時な若手社員をパワフルに演じられていたのがやはり印象的。
今回は、金髪でパンクな感じなのに真剣に授業受けているギャップ! しかもすごく目立つ風貌なのに全然その前の芝居を邪魔しない。存在感があるのに邪魔をしないって、難しいと思うのだけれど、とても自然なのだ。彼がいるから、大学の講義感が増すわけで。そういう意味でもしっかりと“境”として存在しているのがいいなって見ていた。鯉のぬぼーっとしているようでしっかりと真理をついてくるのもすごく伝わってきて、そして生演奏のサックスがめちゃくちゃかっこよかった。


※全部観劇しているわけではないのと過去の作品のことは記憶が薄れているところもあるので、役者さんによって上げる作品の数や印象、分量にバラつきがあると思うがそこはご容赦頂きたい。

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そろそろ締めに、と思う。


前に書いたことと同様の部分もあったかと思うが、総じて、すごく丁寧にわかりやすく山本さんの世界を伝えてくださっていると感じていて、生きるとは何か、愛とは何か、そして死とは何かということをとても考えさせられた。
演出の原さんがピッコロで築き上げたものと、コトリ会議の客演を経て客員となり、山本さんの世界での体験を積み重ねてこられたものがあってこそだと思う。
コトリ会議もピッコロも初見の人にはわかりづらい点もあるのかもしれないな、と思うところもあるが、最大限に分かりやすく作られていたと思う。
それと、私個人のスタンスとしては「演劇なんかわかんなくていいんだよ」っていうところがあって。
だって、人間のことなんてわからないわけじゃない。自分のことですらよくわからないのに。
だから、作り手側も、もしわからないならわからない中で導き出したものを客席に投げてきてくれたらいいと思うし、客席もそのわからんところから自分なりに何かを感じたり、何かを見つけられればいいと思っていて。
演劇の上演は、生だから、どんなに同じようにやろうとしてもまったく同じにはならないわけで、その部分も並行世界だと思う。
観客だって、同じ作品を見るにしたって、どの回を見たか、どの席で見たか、どの人を中心に見るか、音楽に浸るか、照明を美しいと思うか、舞台美術カッケェーって思うか、どこにフォーカスを当てても自由なわけで、それによっても違いが出てくるわけで。どの部分にひっかかりがあってもいいと思う。
正解があるわけではなくて(無論、作り手側にはある意味での正解はあるだろうけれど)、観客が演劇を観て感じる並行世界のその先には夜空の星の如く、宇宙の広さのごとく、それぞれの人間のもつ世界にそれぞれの答えがあるように思う。だからこそ、演劇は客席に観客が入って初めて完成されると言われるのだろう。
難しいという感想も、わかりにくかったという感想も、それでも何かその人の人生に引っかかりがあればよい。


自分の人生は自分で決めるもの。
それでも誰かと寄り添って生きていく。


そういうことを感じさせてくれた、やっぱり演劇って楽しいな、面白いなと思える公演だったと感じる。


まだまだいろいろ思うところはあるが、もう6月も終わるので、いつまでも裏側におらず、表側に戻りたいと思う。


自分の「ぽつ」を追いかけながら、だれかの「ぽつ」と合流するために。


2024/6/30